お盆の起源

お盆は、正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といい、「仏説孟蘭盆経」という経典に基づいて営まれるようになったものと言われています。「日本書紀」には、推古天皇14年(606年)に「釈迦誕生日の4月8日と、7月15日に斉会を設けて供養する勅命が下った」とあり、たいへん古くから行われていた仏教行事であったことが分かります。
釈迦の十大弟子に神通第一とされる目連という人がいました。その目連が釈迦の力も借りながら神通力で亡き母のすがたを探したところ、母は生前の行いが悪かったことで餓鬼道におち、やせ衰えて地獄のような苦しみを強いられていました。
目連は釈迦に母を助ける方法はないか相談します。釈迦は「いま僧たちは、安居(雨季)の修行に入っている。その最後の月の十五日(七月十五日)にご馳走を供えて、僧たちに施し供養しなさい。そうすれば母は餓鬼の苦しみを離れ、人間界に生まれ変わることが出来るでしょう」と答えました。目連はその通りにして母は救われ、母と子が相まみえることができた。というふうに仏説盂蘭盆経に説かれています。
盂蘭盆は凡語の「ウランバナ」の音を写したもので、元々の意味は倒懸(逆さに吊るされる)に由来するという説や、古代イランにおいて霊魂の意味をあらわす「ウルヴァン」が語源であるという説などがあります。そしてまた「お盆」には、文字どおり「tray」として「供え物を乗せる容器」あるいは「供え物そのもの」という意味もあります。
我が国では、おそらく古くから各家ごとに、お正月とともに一年を二分するかたちで先祖の魂祀りが行われていて、お正月は神道的な行事に、お盆は仏教行事としての盂蘭盆会と習合していまの形になったといわれています。
仏教が中国や朝鮮半島を経由して日本に入り、それぞれの土着の民族的な信仰と複雑に習合しながら、地域性豊かないわゆる「お盆」の行事になりました。

お施餓鬼(おせがき)について 

寺院でよくお盆の時期に行われる施餓鬼会(せがきえ)は「仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経(ぶっせつくばつえんくがきだらにきょう」という経典に依っています。その経典には以下のようなことが説かれています。
釈迦の十大弟子である阿難が一人静かに瞑想をしているとき、焔口という名の餓鬼が現れます。その姿は醜く、痩せて口からは火を吐き頭髪は乱れ、とても恐ろしい様相でした。餓鬼は阿難に「これより三日のちに、お前の命は尽きて私のような醜い餓鬼に生まれ変わるだろう」と言います。阿難は餓鬼に、どうしたらその苦難を免れることができるか尋ねます。
「お前が明日中に餓鬼道におちた多くの衆生らに食べ物を施し、仏法僧の三宝を供養すればお前の寿命は延びて、我も餓鬼の苦から抜け出ることができる」と答えます。阿難は釈迦に助けを求めながら餓鬼にいわれた布施行を実践し、餓鬼道に落ちることなく救われました。
お施餓鬼は地域や宗派によって違いがありますが、本堂の入口にご本尊の方を向けて施餓鬼棚を組み、「三界萬霊十方至聖」と書かれた位牌を安置し、三界の萬霊、餓鬼道に落ちて苦しむすべての衆生を救済するというご供養を行います。同時に檀家さんの先祖供養も行われます。本来、施餓鬼会には特別にきまった期日はありませんが、お盆の時期に行う寺院が多く、お施餓鬼といえばお盆の先祖供養の行事と思う方がほとんどだと思います。たしかに鎌倉時代くらいにはすでに餓鬼の救済から先祖供養へとウェイトが移っていたようです。
というわけで、お盆とお施餓鬼は別の由来に依りますが、餓鬼の救済という共通した理念があります。静岡市周辺にはお盆に精霊棚を飾って、ご馳走をお供えするときに精霊棚の脇に無縁仏(むえんぼとけ)さん、餓鬼仏(がきぼとけ)さんへのご馳走を供える習慣があります。自分の家のご先祖さまのご供養だけでなく、浮かばれないすべての精霊をご供養するという「お施餓鬼」を同時に行っているということになります。